紺碧の夜に

140文字では足りない にじみだすような思い

母から貰い、そして教えてもらったのは「愛情」だった

母なる大地とはよく言ったもので、大半の人にとって、自分を産み一番身近で育ててくれた母という存在は、良くも悪くも、とてつもなく大きいと思う。

わたしもまさしくその通りで、母の存在は、人生を重ねていく中で日々じわじわと大きさを増している気がする。もちろん母も人間なので、娘の私から見てもよくない部分などあるわけだけれど、それ以上に、尊敬の念が大きい。

 

母との思い出の中で一番感じるのは「愛情」。

母から感じるのは「母性」のような海原のように果てしなく大きなものではなくて、どちらかというともっと身近な日々の中にひょこっと顔を出す、強い「愛情」。

 

例えばそれは、車の急ブレーキを踏む羽目になった瞬間、助手席にいるわたしの体が放り出されぬよう押さえるため、咄嗟に差し出される腕に宿っていた。

例えばそれは、虫が苦手だったのに、わたしが興味を持ったからと苦手な気持ちを微塵も見せず、虫取りに付き合ってくれた笑顔に宿っていた。

例えばそれは、真夜中に帰ってきたわたしを心配し、寝室から出てきたしかめっ面に宿っていた。

例えばそれは、最期を迎える愛猫を、ひとり抱きかかえながら声をかけていたその姿に宿っていた。

例えばそれは、糖尿病を患った愛猫に、家族皆が尻込みしてしまった注射を打つ真剣な横顔に宿っていた。

例えばそれは……、あの笑顔やあの泣き顔や、あの言葉や行動やあの手紙に、宿っていた。

 

自分が年を重ねるにつれ、その時の母の年に近づくにつれ、それを痛いほど感じ、その時の母の心を想像し、胸が締め付けられる感覚を味わう。

母には「愛情」というものを教えてもらい、「愛情」とは「強さ」でもあること、「命を見守ること」でもあることを、気づかせてもらった。

 

常に誰かのために何かをしている母。今は、ホームヘルパーの仕事をしている。もう60歳も超えたのに。

何故かと言えば、90歳を超えた実母(わたしの祖母)が寝たきりになってしまった時のため、体験をしておきたいからだという。

 

母にはちゃんと自分のために時間を使って生きてほしいが、どうもそうできない性分のようで。母が、自分のために生きるのは、もう少し先になりそうだ。