紺碧の夜に

140文字では足りない にじみだすような思い

「自分のアタマで考える」って意識的にしないと難しい

ちきりんさんのTwitterブログを拝読している。著書のいくつかを手に取ったこともある。中でも、下記2冊は手元にある。

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

 

ちきりんさんは、Twitterで頻繁にツイートを投稿されていて、常に自分の思考とその結論を発信されている。そしてそのツイートのリプに対してこれまた頻繁に、「それはアタシの考えに対しての反応です。あなたの考えは自分のアタマで考えてみてください」というようなことを返していたりもする。

また、本というものに対して、「自分にとっての”いい本”は、知識を与えてくれるものではなく、読むことによって自分を思考させてくれる本だ」というようなことも言われている(Twitterでだったか著書でだったかは忘れたけど)。

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▼見つけた。ぶら下がってるのも併せて、こんな感じのことです。

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「ほうほう」と思ったものの実際のところ、オツムの弱い私は「自分のアタマで考える」なんてそうそうできていない気がする。何か思った・考えたにしても、大抵は「誰か(読んだ本・記事)の意見に反応したもの」だ。

そもそも、「自分のアタマで考える」ってどういうこと?ぐらいに思ってしまうほど、噛み砕けていない。(もっかい「自分のアタマで考えよう」を読み直せって感じですね)

 

相変わらず自分のアタマで考えない日々を送っていた先日、佐藤友美(愛称:さとゆみ)さんというライターさんのnoteに出会った。

note.com

驚いたのは、さとゆみさんの「本を読む」ということに対して求めること?というか姿勢?が、ちきりんさんと酷似していたことだ。

以下、引用。

私にとって、読書とは、ほとんどの場合
知識を得るための手段ではなく
思考をするための手段だからだ。

本を読んでいると、そこに書かれている文章から触発されて、私はいろんな所に旅をする。

(略)

私にとって「素晴らしい本」とは、私をここではない場所に連れていってくれる本だ。 

さとゆみさんのこのnoteを読んで、なんだかストンと腑に落ちた感覚がした。ちきりんさんの「自分のアタマで考えよう」では得られなかった感覚だ。

 

もしかして私は、「自分のアタマで考える」とうことをさも高尚なことに仕立て上げていたのかもしれない。何かで得た刺激を基に、社会について考えなければいけない、何かを改善する考えを持たなければいけない、大きな何かを考えなければいけない----、といった感じで。

実際は、さとゆみさんのように、

そういえば、昔こんなことがあったな。あれ? という事は、あの時のことってこう解釈できる?

といった、内省への思考でもよかったんだ、と。

しかしそもそも、「本を読んで感想を書く(考える)」というのを「本の内容をなぞり直して感じたことを書く(考える)」といった解釈で生きてきたので、本の内容を足掛かりに思考するという訓練ができていない。

まさに、ちきりんさんのツイートで言うこれ。

ということで今後、本を読んだら思考する癖をつけていくためにも、記録していこうかなと考えている。果たしてできるだろうか…。

 

※後に、さとゆみさんだと認識せずにnote投稿の「シンプル服で3首見せれば、いつもの服がなぜだかおしゃれに見えるか【書アド検#7】」を拝読したことがあったと気づいた。とても面白いのでファッションに興味のある方はぜひ。

note.c